昭和57年4月18日 月次祭



 信心によりおかげを受けると言う事も大事ですけれども。一番大事な事は、信心により生きる力と、まあそれをお徳と言うふうにも申しますけれども。を頂くことが、信心のだいたい眼目でなかならければならんと思うですね。まあいろいろ心に心配な事があったり、まあいろいろ心に治めかねないような事がございます。けどもその、治めかねるような事こそ、またはその、不安、心配に思うその事柄こそ私どもが力を頂く、言うならばチャンスであり、機会なのですから。それをおろそかにしてはならない。
 これは、今朝からの御理解でしたけれどもね。神と仲ようする信心ぞと。ね。神を恐がるような事ではいけない。出来るだけ神に近づけというような御理解ですね。神と仲ようする信心とはどういう事だろう。繁々とお参りをする。せっかくお参りをさして頂くならば、もうとにかく早うお参りして、もう前の方で拝がましてもらう。神様に近づくという事です。もう、後ろの方から拝むのと、前から拝むちゅうとなら、お芝居を見てもそうでしょうが。前の方はやっぱ値段が高い。
 (    のところでね)やっぱ神に近づく。私どもどこへ行っても道の正面のここへ座らな、なんか気がすまん。昔からですこれは私の。だからご本部参拝なんかしましても、あんな沢山あん中でも、とにかく一番前に出るんです私は。ね。まあ言うならば、神と仲ようする信心のひとつの手立てとしてね。そういう心がけもいります。どっから拝んだっちゃ同じことちゅうことじゃ駄目です。その為にはそんなら、遅うから来て前の方さんくるわけいかんですからね。
 やっぱ、それだけ時間も早うして、ゆっくりと、言うならよか場所を取ってから拝むと言う。神と仲ようするという、これはまあ形の上ですけれども。今朝から頂きます御理解は、ね、今申しますように、心に治めかねるような事。不安であったり、心配であったりというようなそういう事は神様が、あなたに下さる。神様があなた中心に働いておられる様子であるという事を今朝から頂いたんです。人事じゃないのです。あなたを中心に神様が働いておられる。それが分ったら、どんなに胸にこれに据えかねる事があっても、ね、例えば、心配になることがあってもそれを言うならば有り難く頂く、言うならば手立てを考えなければいけんのです。ね。
 どうも胸につかえてしょうがない。なんか、サイダーかなんか一杯飲んだが、胸がスーッとしようごたる。なるほどサイダー一杯でドスッとこう下がって気持ちの良くなるかもわからんけれども、それではおかげにならん。体の上に。ね。そんなら一回りしてくると言う。まあとにかく運動をする。働かしてもらう。そして、いつのまにか、このお腹がすいてすっきりするというような生き方でないと、言うなら健康の上においても力になりませんでしょうが。
 それを、皆がもう早うこれを、ドスッと下がる方を取ろうするのでは、言うならまあ、おかげを求めておるだけということになります。この胸につかえて、どうにも胸のつかえがおりないその事柄を通して、んなら、神様があなた中心に働いておられる。それが姿であると分る時に神様有り難うございますと言うてお礼を申上げる事になる。ね。例えばそういう難儀な問題なら難儀な問題。腹の立つ問題、心配になる問題がそこにあるといたしましても、それはあなたに対する、神様があなたに中心に働いておられる姿なんです。
 ね。時にそれを、向こう押しやる事をせずに、それを頂いて、ね、頂いておる。一生懸命運動なんかさせて頂いておるうちに、こう胸が下りるような。この生き方でないと、力にならん。ね。ドスっと下がって胸が良くなったと言うなら、目先のそういうを、おかげということでしょう。目先目先のおかげにとらわれずに、その事をもって力にもして行こう。お徳にもして行こうというその生き方が教えなんです。もう、合楽で説かれるのは全てそうなんです。
 ね。先程も、総代さんの高橋さんがお届をされるんです。ぶんこうじょうがある。そこのぶんこうちょうがちっとその、感情方でもう人に怪我ばかりさせる。もうぽんぽん言うわけですね。それで人が怪我をする。ね。それで、まあいつもそのお届があるんですけれども。今日もそのお届をされましたから、私が今朝の御理解を高橋さん頂いておられますから、私が申しました。もうそげなんことをあんたがいっちょいっちょお届したっちゃそれはおかげにならんばいっち私が。それよりか高橋さん、なら(   寿司なら  寿司に)縁あってなら、その、ぶんこうじょうのこうじょう長の(   として)あのやとわせて頂いておる縁があるのだから。ね。それをね、例えばまあ、小言を言う人があるかもしれません。
 あれがその、人が腹の立つような事ばっかり言うと。けれどもね。そこんところに、自分自身がその事を通して豊かになる大きくなるという生き方になりゃあ、おかげ頂くよ。そっちの方はと。言うてまあ申しました事でした。今日先程、皆さんにご通知を申しておりましたように、高柴さんが亡くなられました。高柴さんという人は皆もご承知のような方でしたかが。ね。ある時朝、あのある教会のご信者さんが参ってきとった。そして、総代さん達がお届をする前にひょろひょろ出て来てお届をしようとした。
 こりゃこりゃあんた、まだ総代のお届がすんでからせにゃっち。そしたらその方が、私は、○○教会の信者ですから。○○教会の信者だからっちそんな事は出来んっちからもう、いっぺんぶっすうに言われたからそれっきり参ってこんごとなったです。まあ言うなら、そういう怪我をした人も充分ありますよやっぱ。ね。だからそういう時に、私は、あんたそげなんこと言うちからとはいっぺんでん言うた事ありません。なしかと言うと、それによって反対におかげを頂く人が沢山あるから。先程も申しましたように、大分市部なんかはもう、高柴さんのおかげです。
 田主丸地区も全部そうです。久留米も野口さんとか、ね、あの(   なんかは)皆高柴さんのお導きです。もうほんとにですね、その、何と言うでしょうかね。もう教会を思うという、その情念を非常に強く持つ人でした。丁度、病院に2・3日入っとります、入られる前の日に、どこか、飯塚かどっかに親戚がある、遠い親戚が。(  さんです)そこへわざわざおいでられてから、千人参りのことやら、とにかくあんたお参りしよるかと。お参りしなきゃでけんよと。と言うて、まあもうしゃっしゅうもう、時間をかけてまあお話をされたという事です。
 それであくる日、夫婦で来てました。昨日は、高柴のおっちゃまが来てから、もう信心話をゆっくり聞きましたから、今日は参って来たっちゅう。あら、今朝から病院に入院しとなさるとですよ。ね。なんか、きんしん梗塞かなんかて言う。大変まあ難しい病気。あらそげなんことですか。と聞いて思いますのに、それこそ倒れる前の日まであっちこっち信心のお話をしにまわっとるです。ね。昨日、その亡くなられるお届が、亡くなられる前にもう危篤状態になったというお届が丁度朝の3時に、やっぱ丁度、電話を誰かがおったから受けたと。だからすぐ私のところへ通知きましたから、私は3時にこちらへ出て来ますから、あちらの宅の神様の前でその事を神様にお届さして頂いておりましたらね。
 もう正面から、私の方へ向かってもうこう(   いう勢いでね)大きな、もうこんな口の広いナマズが私の方へ向かってバーっとこう進んでくるところを頂いたんです。そして、良く見るとそのナマズヒゲがないんです。ナマズはこんなヒゲがあるでしょう。高柴さんっていう方は、やはりその今、信徒会長が言うておられましたように、ね、ちょっといばり的なところがあったんですよね。まあ、ひっとう総代で、むっとしてこう、まあ長年総代を務めて来られたんですが。ね。上からこうっと、こう言うのがまあ好きな感じの人でしたね。まあ言うなら、むやぎだったです。どうしんです。
 ね。ですから、そういうところが、当たり障りがあるような時もあったけれども、まあ、ヒゲと言うなら、そのいばりたがりというところじゃろうと思うた。ところが、私の方へ向かってくるその、大きなそのナマズが私の方へ向かってくる。時に私ははあ、もうこれはしまえたなとこう思いましたね。(   のものの)お知らせは必ずあのこれはお徳です。だから、高柴さんは確かにお徳を受けたお方です。ね。しかもなら、亡くなる時にはです、もうこのナマズ、もうこのヒゲというのは、ちょっとこういばりたがりの人のお知らせの時に頂くんですけどね。
 もうヒゲも取って、もうそれこそ有り難い、ああそのお徳によってお国替え出来られた。しかも合楽に向こうてくる。そのもう亡くなる前、もう実際には亡くなっておられるその心というものが、もう余裕の勢いで合楽の方へ向かって来ておられるというお知らせでした。それから、3時45分でしたそうですから、間もなく亡くなられたわけでございますがね。もう、ほんとに、亡くなられる、もうぜんぜんもう無意識であろうと思うのに、あのご大祭、ご大祭には参ったかというのが、あの最後までのまあ、うつつのようにして言われた言葉だそうです。それを聞いて確かにもう、最後の最後まで今日何、例えば熊谷さんなんかもそうでしたが、大祭の日なんかはもう、間違えなしここで、あの高柴さんと一緒に降りて物まで言うたという人があるんですよ。
 はい。そういう一途なものがです、そういう不思議な働きや現れにまで、まあなってきておったわけでしょうが。まあ話しが横道になりましたけれども、まあ明日告別式をここでされます。ですから、まあ言うなら家族達皆で最後のお別れをさして頂きたいと思いますがね。これは、あのこの人の真似の出来ん良いところだけは私どもが、やっぱし頂かせていただく。まあ合楽にとっては、もう大変お役に立った、しかも合楽思いの、教会思いのご信者であったと。そして、75でしょうか、6でしょうか。までの若々しい元気な姿で、ね、朝参りもずっと長年続けられたまあお方であるということであります。
 どうぞ、明日の告別式には皆さんもご参拝を是非して、最後の別れをして頂きたいと思います。今私こう申し上げようとしておるということは、もし高柴さんという人と私との出会いというもので、私が普通になら、高柴さん、高橋さんが言われるように、もうとにかく人にその、まあ、感情かたぎで困ると言うふうな頂き方しとったらもう、あの人は合楽にはもてない人だったでしょうね。けれども私がそれを、まあ言うなら寛大なというか、なら片方でこれを受け切って行ったから、んなら、あの方がどのくらい合楽のお役に立ったか分らないです。だから人間の見る目と、神様がご覧になるそれは違うです。
 それは、私を、私を中心にして働かれたという事になってくるわけです。だから、私を中心にして働いて下さるのであるから、なら胸にはばからないような事があっても、それを有り難いとお礼の出来るところまで自分の心を教えに基ずいて極めて行くという生き方をね身に付けなければ、だいたい合楽通いの値打ちはないです。なら今日、今朝から頂きますように、神と仲ようする信心ぞとこうおっしゃる。今日の御理解の中に、もうこの信心こそ、この、神様と合楽しあう極地だと頂いたんです。
 神と仲ようして行くうちに、言うならば、本当のあいよかけよの信心が出来るようになり。神様と私どもの中から生み出されてくる、言うならば、合楽し合える極地というような心の状態になり、またはそういう信心に触れたいと思うならば、結局神様が私を中心に働いて下さってあるんだと。めいめいがその気持ちにならなきゃいかんです。どんなに腹の立つ問題であっても、どんなに腹にすえかねるような問題であっても、神様があなたに、なら今日、まあ言うならば、高橋さん、高橋定利の為に、その職人さんはおるのだということ。
 してみるとそんなら、有り難う頂けれるところまで頂いたら、そこから先は不思議な不思議な働き。もうあの職人のおかげでこういうおかげになってきたというようなおかげが必ず頂けれるです。ね。いつも申しますように、宝探しなんかそうですよね。もう素晴らしいその、景品のその、ふだといったようなものはどこででん見るとこじゃないです。もうこういうところにはあるまいというところの下にあるようにですね。私どもがお徳を受ける、力を受けるというような材料というような、いつもかつも、そこにもここにもあるというのじゃないです。
 それこそ、腹にすえかねるような事柄それこそが力を頂く、言うなら機会であり、または神様が私を中心に働いておって下さるんだとしてそれをお礼を申上げれるところまで信心を進めて行かなければなりません。ね。誰でも、やっぱり胸がこうつかえとります。ね。なんか(        )スカッとしようごたるですけれどもね。けれども、それよりか、んならちっとこれは食べ過ぎたごたると思うならば、なら少し運動する事。少し働いてみること。ね。そのうちにこれがスカッと下がる。これがもう自然の働きですから、言うならそれが力にもなれば、ね、言わば、お徳にもなる事になりますでしょう。通りは同じです。
 ね。今日、午後の奉仕を終ろうとする時、行橋から電話が掛かって来た。初めての方でした。その方がはじめて、そのある問題で、行橋の支部の方へ朝参りをさして頂いた。沢山お参りがあっておりました。ところが今日不思議な事がございました。と言うのは、朝の御祈念に、今、良太郎君が、あれはいくつかの。中学か。中学一年生。そのあそこのぼっちゃまがその、御祈念に見えて御祈念をして下さいました。そしてもう、素晴らしい、有り難いその、御理解をして下さいました。
 お母さんが、あの、風をひいて休んでおられるから、僕が変わりに御祈念をすると言うて、その神様にお知らせを頂いた事を皆に話したそうです。私は、初めてお参りしてからこげなんありがたか神様があるじゃろうかと思いました。と言うて。その事だけのお礼の電話が掛かりました。ね。これはね、ほんとに有り難いと思う心。まあ例えば、んなら、電話をしてでもお礼を申上げなければおられない。丁度、大祭の前前日だったでしょうか。今毎朝、こう滝さんが朝参りをして見えられます。したらまた、電話がかかってきましたもん。
 そしたらあの、御大祭の案内に、ご長男のいずみさんが玉串であるという通知を受けておった。もうその事が嬉しゅうして有り難うしてこたえんけん、もう、明日の朝お礼申上げればよかっちゃけれども、やはりお電話でお礼申上げにゃおれない。この心なんですよ。信心は。ね。また私明日参るけん。お礼言わんでもよかぐらいじゃ。玉串あたったくらいな事じゃけん。ね。それに玉串のおかげを頂いておったというて、毎日、毎朝参って来るんだけれども、やはり電話でちょっとお礼を申上げなければおられなかったと言うのである。
 ね。今日その、行橋の方からかかって来たと言う人も、初めて金光様、そのあちらのお広前の方で人が助かるという話しを聞いて初めて今日参った。参ったら子供さんが御祈念をさっしゃった。母がこうですから。ね。そして神様からこげなんお知らせを頂いたと言うて御理解までされた。もう、それがもうその、参っておる信者一同がです、もうほんとにおかげ頂いた。おかげ頂いたと言うて帰ったと言うのです。だからその、有り難い有り難いと思うたその心を、ならここへ、ちょっとあのお礼を言わなければおれないと言う心なんです。
 ね。そういう心がですよ。なら今申します。心にすえかねるといったような事柄がです。ね。すえかねるのじゃない。これが私に力を下さるんだと、本然と気が付いたらお礼を申上げなければおられないでしょうが。今日、今朝から頂くように、神と仲ようする信心とは、ね、自分の都合のよか事だけは頂きます。都合の悪い事は向こうへ押しかやすということは、言うならば神をここからこう、遠ざけとる事でしょう。ね。神を恐がると。例えばそこに問題が起こって来る。今難儀な問題が起こって来る。
 ね。そういう時にです、難儀を感じんですむようなおかげを頂けれる、その心が私は、ね、お礼参拝ともなり、言うならば、問題を問題とせずに受けて行けれる力になると思うです。ね。ですから、言うなら合楽にご縁を頂いて、なら朝晩お参りをなさっておられる方達は、そういう言うならば教えをいつも頂いておるのですから、なら今日私高橋さんに、ね、まあ総代さんだから言うのじゃないのですけど。ね。もうそんくらいの、他の事ならば、そりゃお願いさしても頂こうとこう言う。今まではお願いして来たけれど。今日、こんな薬のような御理解を頂いたばっかりじゃないかと。ね。高橋定利を中心にして神様は働いておられるのぞ。
 そんならその事を、有り難く受ける。お届けだんじゃないとよ。とにかくそれが自分の心の中に豊かに泳がせれるようなね信心を頂いた時に、なら、従業員が曲げんとがおるなら辞めてもろうていい。辞めるなら辞めるでいいわけなんです。そこからのおかげがまた、これはまた確率です。ね。そこから先に頂けれるおかげがもう信心の力によって現れてくるおかげなんです。この力を頂かなければね。私、合楽にお参りをするもんじゃないと思うです。ね。その力を頂けれるチャンスを向こうへ押しやろうとするということは、ね、神様が接近して下さろうとしておるのをこちらから神様を向こうに押しやっておるような事になるのじゃないでしょうかね。
 神と仲ようする信心ぞと。神と、神に近づくと言うことは、ね、ご神前で拝むとか、日々しげしげとお参りをするということもありますけれども。その神様の働きそのものを、それを有り難く頂いていくということが、取りも直さず神様をいよいよ身近に、自分の心の中に頂く事が出来る。そこになら、合楽の極地と言われるような、もう神様と自分だけしかわからないような味わいのです、有り難い信心が出来るんです。そういう有り難い信心が出来る時です、ね、もうこう滝さんの話じゃないですけれども、今の行橋の事の話じゃないけれども。そうせずにはおれないものが生れてくるんですね。有り難い時には。
 どうぞひとつ皆さん、せっかく合楽にご縁を頂かれるのですから、もうお徳を受ける。力を受けるという材料を向こうへ押しやらずに。ただ自分の都合のよか事だけこっち来いこっち来いというようなことではなくてですね。もうほんとに一切合財を神様があなたを中心に働いておられるこの姿というものが日々の上に、私の上に起きて来るまあ問題である。もうそこにはね、そこば頂き抜かせてもうと、もう嫌な事は流れてこんごとなるです。ね。それこそ有り難いものばっかりしか流れてこんようになるです。
 ね。それから先が、私はお徳の世界であると。そこに言うならば、合楽世界に住まわせて頂くという事はそういう事ではないでしょうかね。どうぞ。     (ゆきこ)